「ちょ、ちょっと勝手におふたりだけで話をすすめないでくださぃぃいい~!」
星河の抵抗もむなしく、夜澄は意気揚々と神殿をあとにする。土地神の従者でもあり代理神の護衛でもある特殊な能力を持っている彼ら、さんにんの桜月夜の守人たちなら、この竜糸の地に隠された裏緋寒の乙女を探し出すことなど他愛もないことだろう。
そのふたりの後ろ姿を見送りながら、里桜は呟く。「……竜神の花嫁。どんな女の子かしら」
神とひととが共存するカイムの地で、神とひととが婚姻を結ぶことは稀なことではない。
だが、この竜糸の土地神は、数百年ものあいだ眠りつづけている怠惰な隠居老人のような竜神である。神が眠る湖に生贄として桜蜜を生み出す花嫁を捧げて生気を与えれば、驚いて陸地に戻ってはくるだろう。
だが、竜糸の危機が過ぎ去れば、ふたたび湖で眠り呆けてしまうに違いない。そのためには、花嫁を利用して寿命のある限り陸地に縛りつけるほうが、誰も犠牲にならないし、神殿で行っている結界の修復も簡単になるしあちこちで発生する瘴気や闇鬼の存在も一気に払えて一石二鳥だ。
ただ、裏緋寒の乙女には多少の恥辱を強いることになるだろうが……生贄として殺されるよりは神の花嫁として愛玩され傅かれる方がマシだろう。 花嫁が次代の神を孕めばさらに良い。大樹がいなくなった穴を埋めることだって容易くなるのだから。 大樹と里桜。 それは竜頭が眠りにつく前に構築された竜糸という集落特有の存在、代理神の半神の名である。土地神の夢に潜入し、彼の声をきくことのできる選ばれし神術を扱えるふたりの人間が、文字通り、この竜糸の土地神の神の代理となって守護を担っているのだ。ふたりでひとつ。
たとえ神術に長けていようが、どちらかが欠けてしまえば神の代理として強大なちからをつかうのは困難だ。それどころか逆に、結界を緩めて幽鬼の侵入を許しかねない。――いえ、もうすでに悪しき気配は膨らみはじめているわ。ひとに害意を与えるほどではなかった微弱だった瘴気の澱みが、濃くなっているんですもの……
そこまで考えて、里桜という呼称を与えられた少女は淋しそうに微笑う。
「大樹さま」
突然姿を消してしまった自分と同じ役目を持った少年のことを想い、里桜は目を伏せる。
「幽鬼を誰よりも憎んでいらっしゃるあなたが、なぜ竜糸の代理神の役割を投げ出してしまったのです……?」 竜神に代わって竜糸の地を守護する代理神の半神は、弱々しく虚空へひとりごちる。 その声は、眠りつづける竜神の耳には届かない。* * * ――何かに呼ばれたような気がする。 「誰か、いるの?」 陽が沈んでから裏庭に出た朱華(はねず)は首を傾げた恰好のまま、視線を彷徨わせる。 けれど春の花が宴をはじめたばかりのこの場所に、不審な輩は存在しない。 紺碧の夜空と張り合うように咲き誇る深い青色を湛える矢車草が無造作に生い茂るなかを歩きながら、朱華は薬草の植え込みへすすむ。一歩、一歩と足を進める都度、薄荷や紫蘇などの薬草の香りがツン、と鼻腔に届く。そうかと思えば薬草畑を抜けた先で梅や桜をはじめとした甘くて果敢ない花々の柔らかい匂いがふわりと漂い、華奢な朱華の身体を優しく包み込む。 先々には師匠が植えっぱなしにしている花木がいつものように朱華を迎えてくれた。 美しいなかにも妖しさが垣間見える暗紅色の芥子が囲む植え込みの奥には、ひときわおおきな桜の木が泰然と立っていた。 「……もうすぐ、咲くんだ」 淡い萌黄色の長衣を薄荷の香りのする夜風に揺らめかせながら、朱華はしみじみと呟く。 すでに暦は早花月(さはなつき)の半ば。 気づけば家の裏に植えられている桜の木には綿雪のような白くてまるい、いまにも地面に落下しそうなほどおおきな蕾が垂れ下がっている。 物心のついた頃から見ているはずなのに、いつ見ても飽きることのない、朱華にとって特別な木。 毎年この時期になると花開く八重咲きの糸桜の白い花の美しさは格別だと、蕾の膨らんだ花木を見て、朱華は感慨深くなる。「っといけない、お花の水やりと薬草を採ってくるよう頼まれたんだ」 いまはまだ仕事中。物思いにふけって時間を潰すなど言語道断である。手のひらを合わせて天に掲げ、朱華はカイムの民に伝わる『雨』の神謡の一節を唱える。ぱらぱらと小粒な雨が、ほんのすこしだけ庭の植物を潤していくが、その光景を見て朱華は溜め息をつく。「……やっぱりうまくいかないか」 自分が持つ土地神の加護は竜糸の竜神が与えた『雨』のちから。けれど、朱華が持つ加護のちからは弱く、水を操ることすらままならない。師匠が教えてくれたまじないの治癒術は上手にできるのに、基本的なことができないのが朱華の悩みの種である。 ――師匠はあたしが『雨』のちからを使えなくても神術の素質はあるって言ってくれるけど、なんだか土地神さまに嫌われているみたいでイヤだなぁ。 苦笑を浮
ぱたぱたと走って行った少女の姿が裏庭から消えたのを見て、星河が疑わしそうに夜澄に問う。 「あれが、裏緋寒の乙女? 加護術すらまともに使えてないではないか」 どう見ても見習いの薬師にしか見えないと言いたげな星河に、夜澄は真顔で応える。 「前世の記憶を持つお前が認めたくないと思うのは勝手だが……俺たちの気配に感づいていただろう? 間違いない、彼女だ」 土地神の花嫁候補。里桜の鏡とも呼べる裏緋寒。 それは清らかな表の聖女と対になる……穢れをも受け入れる裏の花嫁。ときにそれは土地神が欲望を晴らすためだけに存在する子を孕める愛玩人形となることもある。 竜糸に暮らす少女のなかで、神術に秀でたものが選ばれるのは事実だが、さんにんの桜月夜の守人のなかでも総代にあたる夜澄は、一目見ただけでそれが誰なのか判別できるちからを持っていた。 すなわち、土地神の加護を存分に受けた生粋のカイムの民、もしくは土地神に委ねられた神術の使い手。神々に愛されることはもちろんのこと、北の大地に点在する集落でそれぞれに民と暮らす土地神の加護、またはそれに準ずる神謡の文言を古くから受け継いだものにしか、神職に携わる資格は存在しない。 現に、土地神の加護を代々受け継いだ星河は生誕の地である『雪』の加護と竜神に仕える原因となった前世の記憶を持っている。同じ桜月夜の守人であり星河たちより遅れて入ってきた颯月(さつき)もまた、『風』の加護を持ちながら他の神術を常人以上に扱える。 夜澄に至っては眠りにつく以前の竜頭を知る数少ない人間で、雲桜よりもはるか昔に滅びた『雷』という特殊な部族の末裔である。 カイムの地で生きる民には生誕した集落の土地神の加護がそれぞれ少なからず与えられている。それは『雨』、『雪』、『風』、『雲』、『雷』という五つに分類され、彼らを総括する始祖神とその姐神(あねがみ)とされる至高神のもとで定められたものとされている。 だが、『雲』と『雷』の生粋の民は幽鬼によって滅ぼされてしまった。滅びる前に集落をでた民もいるにはいるが、ごく少数の彼らは自分たちが生まれた土地を離れた間に生地の土地神を失ったことでちからを奪われ、いまでは混血によってわずかな加護しかない人間ほどのちからしか持っていない。 先祖がえりなどの例外も存在するが、それ以外では里桜のような逆さ
「採ってきましたー」 弾んだ朱華の声に鉛白色の長衣をまとった銀髪の青年が振り返る。さっきまで薬を調合していたのか、手元から独特の香りが漂っている。 朱華にとっての師匠、|未晩《みかげ》は摘まれてきたばかりの迷迭香を右手で受け取り、左手で朱華のあたまを優しく撫でる。甘苦そうな薬草の匂いが一気に鼻孔になだれ込み、朱華は軽く咳き込んでしまうが、未晩はまったく気にしていない。 「ご苦労さん。ところで朱華、誰かいたのかい?」 「誰にも会わなかったけど……? あ、診療はもう済んだの?」 朱華が薬草を採りに行っているあいだに本日の診療は終わってしまったようだ。すでに軒先には「本日は終了しました」の札もかかっている。 「とっくに。だから誰かと話でもしてたのかと思ったんだよ」 「ごめんなさい、あたしがぼーっとしていただけです」 時間がかかってしまったのは裏の桜の木に見惚れていたからだと素直に言えず、朱華は未晩の前で項垂れてしまう。しゅん、としてしまった朱華に、怒ってないよと未晩は笑いながら言い返す。「朱華がぼーっとしているのはいつものことだろう?」 「ひ、ひどい! たしかに事実かもしれませんけどっ!」 渡された薬草を束にして、風通しのよい蔀戸のところへつり下げながら未晩は応える。「まぁまぁ。ひとまずお茶でも飲んでゆっくりしなさい。朱華が摘んできた迷迭香で作ってあげるよ」 「えー、生葉だと苦いのにー」 「陰干ししておいたのが切れたの。だから君に多めに採ってくるように頼んだの、もう忘れたのかい?」 「……う」 そういえば。そんなことを言っていたような気がする。 朱華はあきらめて卓の前へ茶器を並べていく。それを見て満足そうに未晩がつり下げたばかりの束から枝葉を千切って無造作に放り込んでいく。沸かしたての湯を注げば、|室《へや》いっぱいに爽快な香りが拡がっていく。 迷迭香には気分を向上させる刺激、強壮作用があるため、この枝葉でお茶を作って飲むと一日の疲れも吹っ飛ぶのだと未晩は朱華に教えてくれた。お茶にするだけでなく煎じたものを湯桶にはって身体を浸せば神経痛に効くし、そのまま湿布薬やむくみの治療に使うこともできるため、診療の際に日常的によく使っている薬草である。朱華が捻挫したときも、未晩がこの生の葉を皮膚にすりこんで応急処置をしてくれたものだ。 注が
「朱華」 「はい」 ここ数日、未晩のようすは、どこかおかしい。その理由が、自分にあることに、朱華も気づいている。だから、仕事が終わったというのに姿勢を正して、未晩を見つめ返す。「もうすぐ、誕生日だね……これが、何を意味するかわかっているかい?」 口ごたえなど許さないと言いたげな、翡翠色の鋭い眼光が朱華の菫色の双眸を射る。「……二十歳になったら、師匠の妻になること、ですね」 「僕は朱華と結婚してほんとうの意味で家族になりたい。きみは頷いてくれたが、ほんとうに、それで構わないのかい?」 竜糸の集落で医師として診療所を開いている未晩は、朱華にとっての養い親でもある。彼は十年前の流行病で孤児となった朱華を拾ってくれたのだ。そして、朱華を見習いとして診療所に置いてくれたのである。 薬草にまつわる知識や怪我や病気の治療法、土地神がもたらす基本的な加護術や、古語の読解法に至るまで、彼は多岐にわたって朱華を導いてくれた。 命の恩人で、育ての親で、生きていくための知識を教えてくれる兄のようなひと。 あのときから、未晩の見た目は変わっていない。 生まれながらの銀髪でもともと老け顔だったからだと彼は笑うが、いまでも充分若々しい未晩のことを、朱華は好ましく思っている。 だから結婚のはなしがでてきたときも、頷けたのだ。 年齢差が親子ほど離れていても、彼となら穏やかに一生を過ごしていけるだろうと思ったから。 それなのに。 さいきんの未晩は、朱華に試すような言葉をあれやこれやと投げつけてくる。「自分を養育してくれたから、とか、義務みたいに思ってるのなら、いちど考え直した方がお互いのためかと思ったからね」 「そ、そんな風に考えてなんかいません!」 「ほんとうに?」 嘲笑まじりの未晩の声が、朱華の耳元を這うようにざわりと抜けていく。ここ数日、毎日のように耳にする、どこか熱を帯びた声色。それに付随する、身体を舐めまわすような視線。 さっきまでの穏やかな未晩はなりを潜め、いまにも襲いかかってきそうな獰猛さを秘めた暗緑の瞳がぎらぎらと朱華を狙っている。 まるで、欲情を抑え込んでいた彼の心の深層に潜む闇鬼が、我慢しきれずに浮かび上がってきたかのよう。 ――けれど未晩が内に隠したその鬼は、朱華が胸に秘していた、苦しみを食べて育ったのだ。「だって、師匠
「……はい」 素直に未晩の言われるがまま、朱華は着ている衣をはらり、はらりと脱ぎ落とす。 真っ白な陶器のような白い肌が、蔀戸の向こうから差し込んでくる月明りに照らされ、うっすらと朱を帯びていく。 未晩の前へ晒けだされた華奢な裸体は、彼に見つめられているだけで、胸元の蕾をツン、と尖らせていた。「すっかりいやらしい身体に育ったね」 「そんな……だって、師匠が……」 「そうだよ。夫婦神に認められるためには、結びつきを高めるため、快楽に素直になる必要がある」 そう言いながら朱華の胸元へ手を伸ばした未晩は、先端に触れるか触れないか曖昧な距離をとりながら、乳暈の周囲を繊細な指先でくるくると撫でていく。 それだけで朱華の身体はビクっと震え、下腹部にちからが籠る。「あ、はぁ……」 「絶頂を迎えることに慣れないと、契る際に朱華を苦しめてしまうからね」 ようやく濡れはじめた秘処の入り口に指を埋めて、未晩は満足そうに微笑む。 けれど未晩の指に犯された蜜口はまだ堅く、朱華は快楽よりも痛みを覚えてしまう。「んっ……きつい、です」 「まだ蕾の状態……か。じゃあ、朱華の好きなところを愛してあげるよ」 「あああっ!」 くぃ、と秘芽に爪をかけられて、朱華の身体に痺れが走る。 その瞬間、つぅ、と蜜口から愛液が涙のように流れ落ちた。「……いやっ」 恥ずかしさと痛み、そしてほんのすこしの気持ちよさが朱華の意識を混濁させていく。 いやだ、と口にしても未晩は嬉しそうに指を滑らせ太腿のあわいを撫でつづけている。「いやがらないで。気持ちよくなる朱華の色っぽい表情は、とても綺麗だ」 「あ、ふっ」 「もっと、その蜜を溢れさせるといい。やがてその蜜は、究極の桜蜜となるのだよ」 寝台に押し倒され、身体中にくちづけの雨が降る。 慣れ切ったはずの口づけも、身体の敏感な場所に刻み付けられる都度、違和感とともに甘い疼きを生み出していく。 そう。 毎日のように朱華は未晩の腕
白い桜の花びらが風に舞い、視界を遮断する。 沈みゆく西陽のあかいひかりがその光景に加わり、周囲は真紅に燃え上がる。 桜の甘い芳香にむせながら、幼い少女は傷ついたちいさな蛇を掌のうえにそっと乗せて言葉を紡ぐ。「Eyaitemka hum pak pak――恢復せよ、小さき雷土(いかづち)の神の御子(こ)よ」 ――蛇は竜神さまの御遣いだから、殺してはいけないの。 亡き母が子守唄のように口にしてくれた神謡(ユーカラ)が、脳裡で甦る。 とっさに声にだした呪文が正しかったか、少女に自信はない。 けれど、目の前でいまにも息絶えそうなちいさな白い蛇を見た瞬間、はやく助けないと間に合わないと判断したから、少女は土地神が与えてくれた加護のちからを発動していた。 それは、白い山桜に囲まれた集落、雲桜(くもざくら)に暮らす『雲』の部族だけが持つ古(いにしえ)民族が残した神謡の断片。 集落では滅多やたらと使ってはいけないと戒められているけれど、いまは危急を要する時だからと少女は思いなおし、ぴくりともしない蛇にちからを注ぎつづける。 おとなに見つかったらたかだか蛇にそのようなちからを使うものではないと叱られ、座敷牢で数日罰せられる。そうはわかっていても少女はやめられなかった。 ――おねがい、起きて! この、ちいさな蛇の命をたすけたい。 もう、自分の前で死んでいく姿を、見たくない。 病に倒れた母を治癒術で救えなかったあの時みたいに悲しい思いをしたくない。 それが単なる自己満足でしかないことはわかっているけれど…… 山裾を西陽が照らしあげていく。 真っ白な桜の花は血のようにあかくくれないに染まっていく。空に浮かぶ雲とともに。 そして、ふたたびの桜吹雪が少女を襲う。 これ以上、呪文を唱えてはいけないとでもいいたそうに、花神の強烈な風が、吹き荒れる。 それでも少女は言葉を紡ぐ。必死になって祈りを捧ぐ。 ひとつに束ねていた長い髪は風に巻き上げられ、身にまとっている白藤色の袿の裾もひらひらと揺らめく蝶のように空を泳ぐ。いつ身体が吹き飛んでもおかしくない状態が、拷問のようにつづく。 禍々しいほどに鮮やかな、深緋色の時間が過ぎていく。すでに太陽は地平線の彼方へと姿を消し、入れ替わるように夜の世界を支配する黄金色の月が、喉を枯らした少女
* * * 「……死にそこなったか。忌わしい蛇だ」 桜吹雪の向こうで、一匹の蝙蝠が嘲るように鳴き声を発している。 その報告を耳に、男はつまらなそうに応える。「蛇がいるからには眠れる竜を無理に起こすこともない。標的を竜糸(たついと)から雲桜に変える」 思わぬ発見だった。 たいしてちからを持たない花神を土地神としている少数部族『雲』が暮らす山深くに位置する雲桜は男にとって捨て置くはずの場所だったからだ。まさかここで至高神の加護を持つ『天』に勝るちからを目の当たりにするとは。これは、放っておけない。「いまはこの、邪魔をした小娘がいる厄介な呪術を使う集落を落とすのが先だ」 雲桜の土地神を殺めれば、その地は瘴気に満ち、またたく間に深い闇へ人間を飲み込んでいくだろう。その絶望に打ちひしがれた人間どもを食餌できるのだ、余興にもちょうど良い。「そのあいだに、計画を練り直せばいい。まだ時間はあるのだから……な」 きぃきぃと、賛同するように蝙蝠が鳴く。気づけば少女に介抱された蛇は、姿を転じることなく澄み切った夜空に逃げるように消えていた。「正体を悟られるのを避けたか。まあよい。あの蛇を殺すのはあとの楽しみとしておこう」 だが、愚かな少女だ。土地神の制止もきかずに術を遂げるとは。これで花神も疲弊して、こちらの侵入に気づくのに遅れるだろう。 男は苦笑しながら蝙蝠に命じる。「いましかない。雲桜を、滅ぼせ」 * * * 息を吹き返し天空に姿を消した蛇を呆然と見送った少女は、暁降ちに起こる嵐の予兆など知る由もなかった。 そして、朝陽を拝む間もなく、故郷は滅ぶ。 雲桜を守護していた土地神、花神が幽鬼によって殺されてしまったから。 * * * 土地神が施した魔除けの結界は解け、悪鬼が美しい桜の園を蹂躙する。 桜の淡い芳香は喰い破られた人間の血肉の臭いに染め変えられ、白い桜もどす黒い瘴気に染まる。 繰り広げられる悪夢に、疑心暗鬼になった『雲』の民は罵りの言葉を吐く。「誰が禁術を使ったのだ……!」 雲桜を守護する花神の加護をもつ『雲』の民は、集落の誰かが禁忌とされる術を使ったために花神のちからが弱体化し、そこを鬼に付け込まれたのだと悟る。 だが、その原因をつくったのが齢九つの少女であることにはまだ誰も気づいていない。
少女は最後まで気づかなかった。 蛇は掌の上に乗せられる以前から、 すでに息絶えていたことに。 * * * 「――ここで、じっとしているんだよ。この悪夢が、終わるまで」 誰もが土地神の守護から引き裂かれ、逃げまどうことしかできずにいる。 そのなかで、少女だけが蚊帳の外へ放り出されていた。 術師である父親が施した、命がけの結界だった。「ヤダ、お父さんも一緒に……!」 「それはできないよ。いいかい。花神さまの遺志を継いで、生き延びるんだ。生きて、逆斎を頼りなさい」 「さか、さい?」「そうだ。|紅雲《べにぐも》であるお前には神術の才がある。雲桜が失われても、お前の身に宿る『雲』のちからは変わらない。それに『天』に連なる逆斎の人間なら、神でなくても鬼に勝てる」 父親が少女へ言葉を贈るあいだも、雲桜に暮らしていた人間は、次から次へと鬼によって葬り去られていく。ぬちゃりともぺたりとも言い知れぬ気味の悪い足音が、父親の背後に迫っている。 けれど、少女はそれを眺めることしかできない。 どす黒いおおきな爪が、父親に向かって振りかざされる。 悲鳴を押し殺して、首からどくどくと血を流しながら父親は叫ぶ。「お前は、土地に仕える逆さ斎に……!」 最期の言葉が溶けて消える。 少女はもはや声をあげることもできずにいた。双眸から滴り落ちる涙をぬぐうこともせず、悪夢の終焉をひたすら、待つ。 見知った雲桜の民がひとり、またひとりと鬼に喰われていく。元凶がどこにあるか真相に辿りつくを与えることなく、首を捥がれ、五臓六腑を引きずり出され、手足を噛み切られ、残虐に殺されていく。おびただしいまでの血が津波を起こし、神聖なる土地を穢していく。目を背けたいほどの光景。けれど少女は瞳を閉じない。忘れてはいけない。目に焼きつけて、離れないようにしなくては…… ――鬼を、倒せる人間に。逆さ斎に、なる。 いまは非力な自分だけど、いつか、雲桜のみんなの仇を討つために。 そう、強い決意を胸に秘めたまま、瞳に涙を溜めたまま、気が狂いそうになりながら見つめていたけれど。 少女の目の前に、燃え上がる炎に照らされ赤く染まった髪の少年が現れて、にっこりと微笑まれたところで、ぷつりと意識が途切れた。 「しばらくお休み。この胸糞悪い夢が醒めたら、キミに逢いにいく
「……はい」 素直に未晩の言われるがまま、朱華は着ている衣をはらり、はらりと脱ぎ落とす。 真っ白な陶器のような白い肌が、蔀戸の向こうから差し込んでくる月明りに照らされ、うっすらと朱を帯びていく。 未晩の前へ晒けだされた華奢な裸体は、彼に見つめられているだけで、胸元の蕾をツン、と尖らせていた。「すっかりいやらしい身体に育ったね」 「そんな……だって、師匠が……」 「そうだよ。夫婦神に認められるためには、結びつきを高めるため、快楽に素直になる必要がある」 そう言いながら朱華の胸元へ手を伸ばした未晩は、先端に触れるか触れないか曖昧な距離をとりながら、乳暈の周囲を繊細な指先でくるくると撫でていく。 それだけで朱華の身体はビクっと震え、下腹部にちからが籠る。「あ、はぁ……」 「絶頂を迎えることに慣れないと、契る際に朱華を苦しめてしまうからね」 ようやく濡れはじめた秘処の入り口に指を埋めて、未晩は満足そうに微笑む。 けれど未晩の指に犯された蜜口はまだ堅く、朱華は快楽よりも痛みを覚えてしまう。「んっ……きつい、です」 「まだ蕾の状態……か。じゃあ、朱華の好きなところを愛してあげるよ」 「あああっ!」 くぃ、と秘芽に爪をかけられて、朱華の身体に痺れが走る。 その瞬間、つぅ、と蜜口から愛液が涙のように流れ落ちた。「……いやっ」 恥ずかしさと痛み、そしてほんのすこしの気持ちよさが朱華の意識を混濁させていく。 いやだ、と口にしても未晩は嬉しそうに指を滑らせ太腿のあわいを撫でつづけている。「いやがらないで。気持ちよくなる朱華の色っぽい表情は、とても綺麗だ」 「あ、ふっ」 「もっと、その蜜を溢れさせるといい。やがてその蜜は、究極の桜蜜となるのだよ」 寝台に押し倒され、身体中にくちづけの雨が降る。 慣れ切ったはずの口づけも、身体の敏感な場所に刻み付けられる都度、違和感とともに甘い疼きを生み出していく。 そう。 毎日のように朱華は未晩の腕
「朱華」 「はい」 ここ数日、未晩のようすは、どこかおかしい。その理由が、自分にあることに、朱華も気づいている。だから、仕事が終わったというのに姿勢を正して、未晩を見つめ返す。「もうすぐ、誕生日だね……これが、何を意味するかわかっているかい?」 口ごたえなど許さないと言いたげな、翡翠色の鋭い眼光が朱華の菫色の双眸を射る。「……二十歳になったら、師匠の妻になること、ですね」 「僕は朱華と結婚してほんとうの意味で家族になりたい。きみは頷いてくれたが、ほんとうに、それで構わないのかい?」 竜糸の集落で医師として診療所を開いている未晩は、朱華にとっての養い親でもある。彼は十年前の流行病で孤児となった朱華を拾ってくれたのだ。そして、朱華を見習いとして診療所に置いてくれたのである。 薬草にまつわる知識や怪我や病気の治療法、土地神がもたらす基本的な加護術や、古語の読解法に至るまで、彼は多岐にわたって朱華を導いてくれた。 命の恩人で、育ての親で、生きていくための知識を教えてくれる兄のようなひと。 あのときから、未晩の見た目は変わっていない。 生まれながらの銀髪でもともと老け顔だったからだと彼は笑うが、いまでも充分若々しい未晩のことを、朱華は好ましく思っている。 だから結婚のはなしがでてきたときも、頷けたのだ。 年齢差が親子ほど離れていても、彼となら穏やかに一生を過ごしていけるだろうと思ったから。 それなのに。 さいきんの未晩は、朱華に試すような言葉をあれやこれやと投げつけてくる。「自分を養育してくれたから、とか、義務みたいに思ってるのなら、いちど考え直した方がお互いのためかと思ったからね」 「そ、そんな風に考えてなんかいません!」 「ほんとうに?」 嘲笑まじりの未晩の声が、朱華の耳元を這うようにざわりと抜けていく。ここ数日、毎日のように耳にする、どこか熱を帯びた声色。それに付随する、身体を舐めまわすような視線。 さっきまでの穏やかな未晩はなりを潜め、いまにも襲いかかってきそうな獰猛さを秘めた暗緑の瞳がぎらぎらと朱華を狙っている。 まるで、欲情を抑え込んでいた彼の心の深層に潜む闇鬼が、我慢しきれずに浮かび上がってきたかのよう。 ――けれど未晩が内に隠したその鬼は、朱華が胸に秘していた、苦しみを食べて育ったのだ。「だって、師匠
「採ってきましたー」 弾んだ朱華の声に鉛白色の長衣をまとった銀髪の青年が振り返る。さっきまで薬を調合していたのか、手元から独特の香りが漂っている。 朱華にとっての師匠、|未晩《みかげ》は摘まれてきたばかりの迷迭香を右手で受け取り、左手で朱華のあたまを優しく撫でる。甘苦そうな薬草の匂いが一気に鼻孔になだれ込み、朱華は軽く咳き込んでしまうが、未晩はまったく気にしていない。 「ご苦労さん。ところで朱華、誰かいたのかい?」 「誰にも会わなかったけど……? あ、診療はもう済んだの?」 朱華が薬草を採りに行っているあいだに本日の診療は終わってしまったようだ。すでに軒先には「本日は終了しました」の札もかかっている。 「とっくに。だから誰かと話でもしてたのかと思ったんだよ」 「ごめんなさい、あたしがぼーっとしていただけです」 時間がかかってしまったのは裏の桜の木に見惚れていたからだと素直に言えず、朱華は未晩の前で項垂れてしまう。しゅん、としてしまった朱華に、怒ってないよと未晩は笑いながら言い返す。「朱華がぼーっとしているのはいつものことだろう?」 「ひ、ひどい! たしかに事実かもしれませんけどっ!」 渡された薬草を束にして、風通しのよい蔀戸のところへつり下げながら未晩は応える。「まぁまぁ。ひとまずお茶でも飲んでゆっくりしなさい。朱華が摘んできた迷迭香で作ってあげるよ」 「えー、生葉だと苦いのにー」 「陰干ししておいたのが切れたの。だから君に多めに採ってくるように頼んだの、もう忘れたのかい?」 「……う」 そういえば。そんなことを言っていたような気がする。 朱華はあきらめて卓の前へ茶器を並べていく。それを見て満足そうに未晩がつり下げたばかりの束から枝葉を千切って無造作に放り込んでいく。沸かしたての湯を注げば、|室《へや》いっぱいに爽快な香りが拡がっていく。 迷迭香には気分を向上させる刺激、強壮作用があるため、この枝葉でお茶を作って飲むと一日の疲れも吹っ飛ぶのだと未晩は朱華に教えてくれた。お茶にするだけでなく煎じたものを湯桶にはって身体を浸せば神経痛に効くし、そのまま湿布薬やむくみの治療に使うこともできるため、診療の際に日常的によく使っている薬草である。朱華が捻挫したときも、未晩がこの生の葉を皮膚にすりこんで応急処置をしてくれたものだ。 注が
ぱたぱたと走って行った少女の姿が裏庭から消えたのを見て、星河が疑わしそうに夜澄に問う。 「あれが、裏緋寒の乙女? 加護術すらまともに使えてないではないか」 どう見ても見習いの薬師にしか見えないと言いたげな星河に、夜澄は真顔で応える。 「前世の記憶を持つお前が認めたくないと思うのは勝手だが……俺たちの気配に感づいていただろう? 間違いない、彼女だ」 土地神の花嫁候補。里桜の鏡とも呼べる裏緋寒。 それは清らかな表の聖女と対になる……穢れをも受け入れる裏の花嫁。ときにそれは土地神が欲望を晴らすためだけに存在する子を孕める愛玩人形となることもある。 竜糸に暮らす少女のなかで、神術に秀でたものが選ばれるのは事実だが、さんにんの桜月夜の守人のなかでも総代にあたる夜澄は、一目見ただけでそれが誰なのか判別できるちからを持っていた。 すなわち、土地神の加護を存分に受けた生粋のカイムの民、もしくは土地神に委ねられた神術の使い手。神々に愛されることはもちろんのこと、北の大地に点在する集落でそれぞれに民と暮らす土地神の加護、またはそれに準ずる神謡の文言を古くから受け継いだものにしか、神職に携わる資格は存在しない。 現に、土地神の加護を代々受け継いだ星河は生誕の地である『雪』の加護と竜神に仕える原因となった前世の記憶を持っている。同じ桜月夜の守人であり星河たちより遅れて入ってきた颯月(さつき)もまた、『風』の加護を持ちながら他の神術を常人以上に扱える。 夜澄に至っては眠りにつく以前の竜頭を知る数少ない人間で、雲桜よりもはるか昔に滅びた『雷』という特殊な部族の末裔である。 カイムの地で生きる民には生誕した集落の土地神の加護がそれぞれ少なからず与えられている。それは『雨』、『雪』、『風』、『雲』、『雷』という五つに分類され、彼らを総括する始祖神とその姐神(あねがみ)とされる至高神のもとで定められたものとされている。 だが、『雲』と『雷』の生粋の民は幽鬼によって滅ぼされてしまった。滅びる前に集落をでた民もいるにはいるが、ごく少数の彼らは自分たちが生まれた土地を離れた間に生地の土地神を失ったことでちからを奪われ、いまでは混血によってわずかな加護しかない人間ほどのちからしか持っていない。 先祖がえりなどの例外も存在するが、それ以外では里桜のような逆さ
* * * ――何かに呼ばれたような気がする。 「誰か、いるの?」 陽が沈んでから裏庭に出た朱華(はねず)は首を傾げた恰好のまま、視線を彷徨わせる。 けれど春の花が宴をはじめたばかりのこの場所に、不審な輩は存在しない。 紺碧の夜空と張り合うように咲き誇る深い青色を湛える矢車草が無造作に生い茂るなかを歩きながら、朱華は薬草の植え込みへすすむ。一歩、一歩と足を進める都度、薄荷や紫蘇などの薬草の香りがツン、と鼻腔に届く。そうかと思えば薬草畑を抜けた先で梅や桜をはじめとした甘くて果敢ない花々の柔らかい匂いがふわりと漂い、華奢な朱華の身体を優しく包み込む。 先々には師匠が植えっぱなしにしている花木がいつものように朱華を迎えてくれた。 美しいなかにも妖しさが垣間見える暗紅色の芥子が囲む植え込みの奥には、ひときわおおきな桜の木が泰然と立っていた。 「……もうすぐ、咲くんだ」 淡い萌黄色の長衣を薄荷の香りのする夜風に揺らめかせながら、朱華はしみじみと呟く。 すでに暦は早花月(さはなつき)の半ば。 気づけば家の裏に植えられている桜の木には綿雪のような白くてまるい、いまにも地面に落下しそうなほどおおきな蕾が垂れ下がっている。 物心のついた頃から見ているはずなのに、いつ見ても飽きることのない、朱華にとって特別な木。 毎年この時期になると花開く八重咲きの糸桜の白い花の美しさは格別だと、蕾の膨らんだ花木を見て、朱華は感慨深くなる。「っといけない、お花の水やりと薬草を採ってくるよう頼まれたんだ」 いまはまだ仕事中。物思いにふけって時間を潰すなど言語道断である。手のひらを合わせて天に掲げ、朱華はカイムの民に伝わる『雨』の神謡の一節を唱える。ぱらぱらと小粒な雨が、ほんのすこしだけ庭の植物を潤していくが、その光景を見て朱華は溜め息をつく。「……やっぱりうまくいかないか」 自分が持つ土地神の加護は竜糸の竜神が与えた『雨』のちから。けれど、朱華が持つ加護のちからは弱く、水を操ることすらままならない。師匠が教えてくれたまじないの治癒術は上手にできるのに、基本的なことができないのが朱華の悩みの種である。 ――師匠はあたしが『雨』のちからを使えなくても神術の素質はあるって言ってくれるけど、なんだか土地神さまに嫌われているみたいでイヤだなぁ。 苦笑を浮
「ちょ、ちょっと勝手におふたりだけで話をすすめないでくださぃぃいい~!」 星河の抵抗もむなしく、夜澄は意気揚々と神殿をあとにする。土地神の従者でもあり代理神の護衛でもある特殊な能力を持っている彼ら、さんにんの桜月夜の守人たちなら、この竜糸の地に隠された裏緋寒の乙女を探し出すことなど他愛もないことだろう。 そのふたりの後ろ姿を見送りながら、里桜は呟く。「……竜神の花嫁。どんな女の子かしら」 神とひととが共存するカイムの地で、神とひととが婚姻を結ぶことは稀なことではない。 だが、この竜糸の土地神は、数百年ものあいだ眠りつづけている怠惰な隠居老人のような竜神である。 神が眠る湖に生贄として桜蜜を生み出す花嫁を捧げて生気を与えれば、驚いて陸地に戻ってはくるだろう。 だが、竜糸の危機が過ぎ去れば、ふたたび湖で眠り呆けてしまうに違いない。 そのためには、花嫁を利用して寿命のある限り陸地に縛りつけるほうが、誰も犠牲にならないし、神殿で行っている結界の修復も簡単になるしあちこちで発生する瘴気や闇鬼の存在も一気に払えて一石二鳥だ。 ただ、裏緋寒の乙女には多少の恥辱を強いることになるだろうが……生贄として殺されるよりは神の花嫁として愛玩され傅かれる方がマシだろう。 花嫁が次代の神を孕めばさらに良い。大樹がいなくなった穴を埋めることだって容易くなるのだから。 大樹と里桜。 それは竜頭が眠りにつく前に構築された竜糸という集落特有の存在、代理神の半神の名である。土地神の夢に潜入し、彼の声をきくことのできる選ばれし神術を扱えるふたりの人間が、文字通り、この竜糸の土地神の神の代理となって守護を担っているのだ。 ふたりでひとつ。 たとえ神術に長けていようが、どちらかが欠けてしまえば神の代理として強大なちからをつかうのは困難だ。それどころか逆に、結界を緩めて幽鬼の侵入を許しかねない。 ――いえ、もうすでに悪しき気配は膨らみはじめているわ。ひとに害意を与えるほどではなかった微弱だった瘴気の澱みが、濃くなっているんですもの…… そこまで考えて、里桜という呼称を与えられた少女は淋しそうに微笑う。「大樹さま」 突然姿を消してしまった自分と同じ役目を持った少年のことを想い、里桜は目を伏せる。 「幽鬼を誰よりも憎んでいらっしゃるあなたが、なぜ竜糸の代理神の
「ここに、裏緋寒(うらひかん)を……花嫁を連れてきなさい」 「ですが」 「竜糸の土地神さまである竜頭(りゅうず)さまが眠りつづけて身動きのとれないいま、半神の不在は致命的なのよ。神としてのちからを補うためにも、竜頭さまの番になることが叶う裏緋寒の乙女は欠かせないわ」 里桜は自分よりあたまふたつ分おおきな星河に向けて、言い募る。「竜神さまとの対話なら、里桜さまおひとりで問題な……」 「いままでならそうしていたわ! でも、それは傍に大樹(たいじゅ)さまがいたから安心してできたことなのよ。彼がいない状態で竜頭さまの夢の中へ思念を飛ばすなど、結界を自ら破るのと同じこと。大樹さまが消失されたのが知られれば、幽鬼どもはこの竜糸の地に押し寄せてくる。それを阻止するためにも……」 「生贄にするのか」 冷めきった声がふたりの間に割って入り、里桜と星河は目を見合わせる。 物音をたてることなく神殿内部に入ってきたその男は、夜を彷彿させる黒い外套を脱ぎ捨て、星河と同じ白い浄衣の姿になると、不本意そうに里桜の前に跪く。「――夜澄(やずみ)」 「この土地に暮らす乙女を竜神が眠る湖に捧げてまで、逆さ斎の里桜サマは幽鬼の魔手を退けたいご様子。そんなことをしても、竜頭は喜ばないぜ?」 「……それでも、大樹さまの穴を埋めることくらいならできるでしょう?」 「まあ、表緋寒(おもてひかん)の里桜サマのご命令なら、従いますけどね」 「夜澄!」 星河に一喝されても夜澄は態度を変えない。土地神が眠る竜糸を実質上守護する代理神である里桜を支える立場にある桜月夜の守人のなかで、彼だけは竜頭のみに忠誠を誓いつづけている。彼の代理でしかない人間を敬うなど無駄だと一蹴しつつも、竜頭が愛する竜糸を護るためだと守人の任務をつづける夜澄の主張もわかるので、里桜はあえて怒りはしない。「言葉が足りなかったようね。あたくしは裏緋寒の乙女を生贄にするつもりはなくてよ? とりあえず神殿に彼女をお招きしたいの。そうすれば、竜頭さまだって……」 ――表と裏の緋寒桜が揃いしとき、隠れし土地神は桜蜜(おうみつ)を生み出す神嫁を欲して降臨する。 星河は里桜の意図に気づき、顔面を蒼白させる。「眠っている土地神を強引に起こそうというのか!」 ここ何百年も眠りつづけている竜糸の土地神を、目の前にいる少女は
――幽鬼(ゆうき)。 それは神と人間がともに暮らすこの北の大地、カイムに出現する人間に似た異形のものたち。 鬼と呼ばれることの多い彼らは暗闇を愛し神を選んだ人間に仇なす忌わしき存在である。 ときには人間の心の闇に巣食う闇鬼(あんき)を潜ませ、扇動し、争いと混沌に満ちた箱庭を作り、破壊することもある。 土地神に護られた人間を自分たちの玩具にし、大陸の神々を屈服させるべく、鬼たちは人間の寿命よりもはるかに長い、気が遠くなるほどの年月をかけて、いまもどこかで策謀を張り巡らせ、暗躍しつづけている。 奴らの魔手から逃れるため、古代の先住民であるカイムの民は、集落ごとに神との契約をさせ、土地神の加護という名の結界を施した。だが、あれから千年ちかくが経ち、神々の結界もまた、あちこちで綻びが生じているのが現状である。「……あれから十年ですか」 幽鬼による雲桜の滅亡は、カイムに暮らす他の部族たちにも衝撃を与えた。 古代の伝承でしか知らされていなかった幽鬼は実在し、いまもなお人間たちに害をなそうとしていたのだ。 どの集落も次は自分のところに来てもおかしくないと感じたのだろう、この数年で術師による結界はずいぶんと強化されたように感じる。 だが、土地神がひとと混じって暮らしている集落はまだいい。ここ、竜糸の地は、守護してくれるはずの竜神が、湖の底で眠りこんでいるのだ。それは、もう、何百年と……! 絹の浄衣をまとった神職の蒼い髪の青年は、水晶の縫いこまれた濃紫色の袿を纏った少女の前で、はぁと息をつく。土地神が眠りこけているせいで、とばっちりを受けている神殿の人間からすれば、神不在の状態で闇鬼だけでなく元凶とされる幽鬼の襲来をも警戒しなければならないのだ。下手をすれば雲桜の二の前になってしまう。 だが、青年の前に座る少女の表情はやわらかかった。 いちばん辛い立場にあるというのに、どこか楽しそうにも見えてしまう。「幽鬼がとらえる時間の感覚は人間のそれとはまったく違うわ。その点だけは神に近いとも言えるんじゃなくて?」「そうですね。ですが、おひとりで竜神さまの代理をつとめるのは、やはり無理があります」 「星河(せいが)。それでも、いま、代理神としてこの地を守ることができるのは、逆さ斎としてのちからを宿したあたくししかいないのよ」 「ですが、里桜(さ
少女は最後まで気づかなかった。 蛇は掌の上に乗せられる以前から、 すでに息絶えていたことに。 * * * 「――ここで、じっとしているんだよ。この悪夢が、終わるまで」 誰もが土地神の守護から引き裂かれ、逃げまどうことしかできずにいる。 そのなかで、少女だけが蚊帳の外へ放り出されていた。 術師である父親が施した、命がけの結界だった。「ヤダ、お父さんも一緒に……!」 「それはできないよ。いいかい。花神さまの遺志を継いで、生き延びるんだ。生きて、逆斎を頼りなさい」 「さか、さい?」「そうだ。|紅雲《べにぐも》であるお前には神術の才がある。雲桜が失われても、お前の身に宿る『雲』のちからは変わらない。それに『天』に連なる逆斎の人間なら、神でなくても鬼に勝てる」 父親が少女へ言葉を贈るあいだも、雲桜に暮らしていた人間は、次から次へと鬼によって葬り去られていく。ぬちゃりともぺたりとも言い知れぬ気味の悪い足音が、父親の背後に迫っている。 けれど、少女はそれを眺めることしかできない。 どす黒いおおきな爪が、父親に向かって振りかざされる。 悲鳴を押し殺して、首からどくどくと血を流しながら父親は叫ぶ。「お前は、土地に仕える逆さ斎に……!」 最期の言葉が溶けて消える。 少女はもはや声をあげることもできずにいた。双眸から滴り落ちる涙をぬぐうこともせず、悪夢の終焉をひたすら、待つ。 見知った雲桜の民がひとり、またひとりと鬼に喰われていく。元凶がどこにあるか真相に辿りつくを与えることなく、首を捥がれ、五臓六腑を引きずり出され、手足を噛み切られ、残虐に殺されていく。おびただしいまでの血が津波を起こし、神聖なる土地を穢していく。目を背けたいほどの光景。けれど少女は瞳を閉じない。忘れてはいけない。目に焼きつけて、離れないようにしなくては…… ――鬼を、倒せる人間に。逆さ斎に、なる。 いまは非力な自分だけど、いつか、雲桜のみんなの仇を討つために。 そう、強い決意を胸に秘めたまま、瞳に涙を溜めたまま、気が狂いそうになりながら見つめていたけれど。 少女の目の前に、燃え上がる炎に照らされ赤く染まった髪の少年が現れて、にっこりと微笑まれたところで、ぷつりと意識が途切れた。 「しばらくお休み。この胸糞悪い夢が醒めたら、キミに逢いにいく